つくろう、島の未来

2018年12月11日 火曜日

「国境離島」と呼ばれる島々に暮らしている人の想いを紹介。2017年4月、「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

230年前の歴史と今を繋ぐ郷土芸能。 過酷な島で生きる意味。

東京都の青ヶ島にて、自動車整備やレンタカーの貸し出し、自然ガイドなど様々なことをしながら暮らす荒井さん。地元の郷土芸能である「還住太鼓(かんじゅうたいこ)」をルーツとする太鼓ミュージシャンとして本土で暮らしていた荒井さんが、生まれ故郷に戻ると決めたきっかけは何だったのでしょうか。お話を伺いました。(編集:another life.編集部)

荒井智史(あらい・さとし)|青ヶ島の未来をつくる 青ヶ島還住太鼓の代表を務める。

医者になりたいという夢

東京都の離島、青ヶ島で生まれました。弟と妹がいる長男です。青ヶ島の当時の人口は210人。同級生は5人しかいませんでした。ただ、みんな長男長女だったので、遊ぶ時は兄弟など、年下の世代も巻き込んで、遊び相手はたくさんいましたね。野球やサッカー、バスケットボールなど、集団でやる遊びもできました。

小さい頃から小児喘息を患っていました。島外の病院に行こうと思っても、当時船は週に3便程で、欠航も多いので、簡単には島外に出られません。また八丈島で一泊しなければ本土まで渡れませんでした。島に診療所はあったのですが、十分な治療は受けられず、発作が起きても自然に治まるまで何日も苦しみました。

15歳の時に自治医大からお医者さんが来てくれるようになりましたが、それまでは本当に大変でしたね。だから、将来は医師免許を取って、医者になって青ヶ島に帰って来たいと考えていました。

青ヶ島には中学校までしか無いので、15歳になると必ず島外に出ます。高校生になって島を出ると頻繁には帰って来られないので、上の先輩たちも夏休みとか正月に年に一度戻ってくるくらい。島の外での生活がどんなものなのか、全く想像できなかったですね。特に、僕たちの同級生はみんな長男長女。上に参考にできる兄弟もいないので、何もイメージできませんでした。

でも、島を出る覚悟は自然とできていました。期待や不安が入り混じりながらも、島で育つと15歳の時にはそうなるものなんです。僕の場合、島の中だけの狭い世界で暮らしていたという感覚があったので、とにかく広い世界に出て新しい経験をしてみたいと思っていましたね。

それで、高校は人数の多い大きいところに行きたいと思って、千葉県の私立高校に進学しました。同級生は500人以上いて、青ヶ島とは全く違う世界。東京の叔父の家に居候させてもらって通学したんですけど、何をするにも緊張しましたね。満員電車にもあまり乗ったことがなかったので。最初の数か月は学校に行くだけで精一杯でした。

勉強に励む一方、部活は、部員0人の太鼓愛好会に入りました。大人数の中で、自分にしかできないこと、自分が一番になれるものを見つけようと思っていたところ、入学案内に太鼓愛好会があったんです。で、行ってみたら部員は0人でいきなり一番になっちゃったんです(笑)。

太鼓は、昔から慣れ親しんだものでした。青ヶ島には「還住太鼓」という郷土芸能があります。古くから伊豆諸島南部の郷土文化の中で、太鼓は、島唄、島踊りと同様に重要な位置にあったんですね。青ヶ島では神事の時に叩くために発達していったんですけど、より楽しみながら叩けるようにしたのが「還住太鼓」です。

ただの娯楽ではなく、青ヶ島の歴史を伝える意味も込められています。青ヶ島は1785年の噴火によって、全島民が八丈島へ避難しました。それから50年の歳月をかけて島に戻った人たちがいて、それを「還住」と呼びます。その還住の歴史も伝える郷土芸能にしようということで、父と当時の村長さんがはじめたのが、「還住太鼓」です。

太鼓は僕のルーツ。都会での生活に必死になりながらも、太鼓だけは叩き続けていました。

本当に自分がやりたいこととは

2年生に進級してからは、都会での生活にも慣れて勉強よりも遊びに夢中になりました。友達も増えて楽しかったのですが、色恋沙汰とかもあったり(笑)。仲が良いと思っていた友達と仲違えすることもありました。

陰口が聞こえたりすると、せっかく大きいところに出てきたのに、島と同じ閉鎖的な一面を垣間見て、学校がすごくつまらなくなって、それからサボるようになりましたね。学校に行くはずが反対の電車に乗ってみたり。

そういった人間関係を初めて体験しました。島の同級生は、友達とは少し違う感覚なんですよね。小さいころからずっと一緒に育ってきているので、お互い性根を知ってるというか。そういうのとは違う距離感で、裏表ない人間関係を築く難しさを感じましたね。こういった時期に変わらずに付き合ってくれた友達は親友になりました。

人間関係のことで、学校をサボりがちになっていたものの、医者になりたいという目標は変わらず、病院見学やボランティア活動をしました。

ただ、医師の仕事を垣間見るにつれて、「本当に生涯をこの仕事に捧げられるだろうか?」という疑問が湧きました。人の生死に直接関わり、生半可な気持ちではできない仕事だと思ったし、自信がないというのもありました。また、日進月歩の医療の世界では、医者になれても、将来青ヶ島に帰れないかもしれないと感じたんです。青ヶ島に戻りたいという思いが、心の片隅にあったのかもしれません。

受験勉強をしながら、太鼓は続けていました。あるとき障害者支援施設で太鼓を叩く機会があったんです。

2年生の時、初めてお邪魔して、重度の障害を持つ方と一日過ごしたのですが、言葉も通じないし、あちこち動き回ってしまうしで、どうしたらいいか分からなくて。結局その方と一度も意思疎通できないまま一日終わってしまいました。最後にその方のお母さんに「あの子かわいそうだから帰してあげて」と言われて。毎日一緒に顔を合わせて築いてきた時間もない高校生がいきなりコミュニケーションを取れるはずもないので、そんなに落ち込むことでもないのですが、そのときは本当に落ち込みました。

そんな経験があったのですが、3年生の時に再び訪ねて太鼓を叩いたときは、すぐに打ち解けられたんです。言葉じゃなくても気持ちが通じた実感があって、すごくいい時間を過ごせて。音楽、太鼓の可能性を感じました。

ただ、まだ医者を目指したい気持ちもあり、吹っ切れないまま医学部を受験して、結果は不合格。浪人中も迷いを抱えたままで、結局、医学部には入れませんでした。

それで、合格した大学に進学したんですが、1年でやめることにしました。「これがしたい」と覚悟を持って入ったわけでもなく、このまま4年間通っても何も成長できないだろうと思って、「本当にやりたいことをやろう」と中退を決めました。両親には本当に申し訳なかったです。

学校を辞めて、太鼓の演奏家として可能性を広げていく。即興演奏で自由にいろんな人といい音楽がしたい。そんなことを考えていましたね。

言い訳している自分と向き合う瞬間

大学をやめて、半年間は東京で音楽活動をして、その後半年は青ヶ島で父の経営する自動車整備工場の手伝いをしました。実家が忙しいから手伝うという建前でしたが、本音を言えば不安だったんですね。都会で全て一人でやっていく自信がなかったんです。

青ヶ島にいる時は太鼓を叩く暇はなく、仕事に専念。逆に、東京にいる時はアルバイトをせずに、太鼓に集中しました。少しずつ太鼓を買い揃えて、ドラムセットのようにいくつか並べて演奏しました。自分にしかできないスタイルを確立したいと思って、色々やりましたね。

最初は、ひとりで曲を作ってやっていたんですが、当然お客さんはも来ないし、誰にも見てもらえませんでした。いろんな人と出会って音楽をつくれるようになりたいと思って、オープンセッションができるライブハウスに行くようになりました。ギターやベース、ドラムがいるところに太鼓で乗り込んでいくんです。太鼓を持っていく奴なんて他にいなかったので、面白がってもらえました。

売れたいというよりも、本物のミュージシャンになりたいと思っていましたね。いろんな音楽に触れていると、本物の音楽家はやっぱり本物の音楽家だってわかるんです。誰が聞いたっていいってわかるし、ジャンルが違ったとしても、その人の音に触れると本当に心が動く。そういう、ちゃんと音楽ができるミュージシャンになりたいと思っていました。

そんな生活を8年続けた28歳の頃、仕事中に大きな事故に遭いました。車の整備中にタイヤがバーストして、顔面骨折。島から病院に行くまでも本当に大変だったのですが、1ヶ月以上入院して、手術から2週間はずっとベッドの上。言葉もしゃべれませんでした。身動きできない中で感じるのは、自分の心臓がトクトクいってる音。ゼロになった感じがしました。

その時に色々考える時間ができました。それまでは色々言い訳して、サボっていたなと思いましたね。演奏に必要なトレーニングも足りなかったし、それ以上に気持ちの面。半分島に帰ってる自分を、自分自身がいちばん中途半端だと思っちゃってたんですね。そのやり方を貫くなら、ちゃんと覚悟を持って、言い訳なくどっちも真剣にやろうと思いました。島に帰ったときはちゃんと仕事するし、都内に戻ったら集中して音楽をやろうと。

真剣にというか、後悔がないようやろうと思いました。いつ死ぬかわからないんだから、後悔をしないようにやろうと。

どこでも変わらない自分に

怪我をしたのが28歳。自分の中で30歳は一つの区切りだと思っていて、真剣に太鼓を叩いていくうちに、音楽のテーマも自然と青ヶ島の方向に向きました。

それまでは、どちらかといえば見ないようにしてたんですけど、自分のオリジナリティとは何かを考えたときに、青ヶ島にちゃんと目を向けるようになったんです。ちょうどいい巡り合いもあり、バンドを組んで青ヶ島の島唄をモチーフにした曲を作り始めました。

心の中では、ずっと前から青ヶ島に帰ることは決めていたんですね、たぶん。ただ、中途半端には帰りたくなかった。都会で生きづらくなったから何となく帰るのはいやでした。世界中どこにいても自分は自分らしくいられるなら帰ろうと思ったんです。

そうじゃないと、青ヶ島で暮らせないと思ったんです。そういう風に思えなかったら、 島にいる自分に対して「本当は都会でもっとできたのに」と言い訳するのが目に見えていたので。

バンドでの活動は、着実に手応えがありました。CDが売れたとか、名前が売れたとかではなかったんですけど、この人たちと音楽をやりたいという人と一緒に音楽を創れて。演奏って上手くいかないと相手のせいにしがちなんですが、この人ととやりたいなって思った相手だと全てを受け入れることができるんですよね。

1年ほどバンドを続けて、やれることはやったという手応えがありました。どこにいっても変わらない自分でいられる。また、ずっと付き合っていた彼女とも結婚することに決めたので、島に戻ろうと思いました。

島で活用できる資格を取りに行っている時、東日本大震災が起きました。震災で故郷に帰れなくなってしまった多くの人を見て、青ヶ島という故郷があることを改めて考えました。

そして、2011年の9月、30歳の時に青ヶ島に戻りました。太鼓はライフワークだし、音楽は心の通った出会いや交流を生んでくれるので、続けようと思いました。ただ、バンドスタイルではなく、自然と自分のルーツである「還住太鼓」に一番魅力と可能性を感じるようになりました。

いい音楽って、本気で楽しまないと生まれないんですよね。島で生活してると慣れてしまって、なかなか本気で何かをやることって少ないので、そういうところも太鼓を通じて変えたいなと思っていました。

子どもたちのために生きたい

現在は父の整備工場で働きながら、レンタカー屋さんをやったり、母の商店を手伝ったり、ガイドをしたり、島に戻る前に資格を取った浄化槽維持管理士として働いたり、村の教育委員をしたり、様々な仕事をしています。あとは、もちろん、島の子供たちと一緒に還住太鼓も叩いています。人口が少ない島では、ひとつの仕事だけではとても食べていけないんです。これからは今自分たちができる技術と、島の中で求められていることを合わせて、新しい仕事を作ることも大切だと思います。

いろんなことをしているので、小さな島に暮らしていても、毎日違う人と出会うし、来島されるいろんな分野のプロフェッショナルともご一緒するし、自分でも何してるのかよく分かんなくなることがあります。でも今は、どんなことも自分の中では全部繋がって感じられて楽しめています。それが、どこにいても自分らしくいられるという感覚に近いんだと思います。

僕はその感覚を音楽を通して教えてもらったんですね。やっぱり、太鼓を叩いている時が、自分にとってはその状態に一番近い。島って、時々来るには気持ちの転換になりますが、常時いるとなると、かなり閉塞感があります。その閉塞感に取り込まれちゃうと、自分の成長が止まると思うんですよね。

同じ目線で一緒に何かやる仲間がいたらそれは幸運なことだけど、小さな島で同世代も少ないので、そういうことは期待できないだろうと覚悟していました。とにかく伝える時間が必要ですね。僕が楽しいっていうことに対して、もしみんなつまらなそうな顔をしてても、やり続けられることが大事。僕は太鼓ホントに好きだから、まぁ太鼓なら大丈夫なんです。絶対楽しいし伝わるって信じてるから。10年かけて一緒に太鼓を叩く人がちょっとずつ増えたらいいなという感じです。

今後は、青ヶ島に暮らす人が一つになれるようなことをしたいですね。ライフスタイルも変化して、昔と比べると自然と気持ちが一つになる瞬間が減っているように感じます。

例えば、昔は船を港につけるため、島中総出で作業が必要だったので、どんなに仲違いしていようが、顔を合わせて作業をするわけです。わだかまりがあったとしても、共に島で暮らすために協力しなければならない瞬間が年に何回もあったんです。

それが、時代も変わり、島で生きるのに必要な一体感みたいなものがなくなってきている気がします。年々、島を支えてきたお年寄りが減る一方、島外出身で青ヶ島で暮らす人も増えています。何とか人と人との橋渡しができればと思っています。

加えて、郷土芸能の島唄や島踊り。これって、江戸時代の人も同じことを同じようにやって楽しんでいたわけです。そう思うとね、メロディーや動き自体が、一つの記憶なんです。難しいこと考えないで、島唄や島踊りを楽しむと、昔の人からずっと続いてきたもの、同じ記憶をちゃんと共有できるようになってるんですよね。

一年に一回島踊りをみんなでちゃんと踊って楽しめるなら、島はまだ大丈夫だと思いますね。郷土芸能はそういう力があるので、絶対に残していきたいですね。

あとは、コミュニティの中心は子どもにあると思うんです。青ヶ島では運動会や学芸会なんかは大人も仕事は全て休みにして、島中総出で全員参加します。子どもたちは僕たち大人にとっても未来そのものです。子どもの成長を通して考えることもいっぱいあるし、子どものためによくしてあげようって思ったら、みんなの考えが一致するところも出てくると思います。

島に子どもがいて、ここで育っていくっていうのは、いちばん大事なこと。子育て世代に増えてほしいです。

あとは、子どもたちが島の魅力に気がつく機会を作りたいですね。僕自身、15歳で島を出るまで、島のことを何も気づかずに過ごしていたんです。こんな豊かな環境で暮らしながら、火山や植物のことを改めて知る機会がありませんでした。島の事を知って暮らしの中で体験した記憶があれば、そのときは興味がもてなくても、大きくなったとき思いだすかもしれない。子どもたちと学ぶ機会をちゃんとつくっていきたいですね。

離島経済新聞 目次

【国境離島に生きる】国境離島71島に暮らす人へのインタビュー

いわゆる「国境離島」と呼ばれる島々にはどんな人が暮らしているのか? 2017年4月に「有人国境離島法」が施行され、29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定されました。「国境離島に生きる」では、内閣府総合海洋政策推進事務局による「日本の国境に行こう!!」プロジェクトの一環として実施された、71島の国境離島に生きる人々へのインタビューを、ウェブマガジン『another life.』とのタイアップにて公開します。

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